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エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵) : ミニ英和和英辞書
エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)[はくしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
伯爵 : [はくしゃく]
 【名詞】 1. count 2. earl 

エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵) : ウィキペディア日本語版
エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)[はくしゃく]

第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー英語Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, 、1799年3月29日 - 1869年10月23日)は、イギリス政治家貴族
保守党とピール派の分裂後にロバート・ピールに代わって保守党党首となり、3度にわたって首相1852年1858年 - 1859年1866年 - 1868年)を務めた。しかしいずれも少数与党の短命政権であり、事実上選挙管理内閣だったため、庶民院院内総務の地位にあったベンジャミン・ディズレーリが政局を主導するところが多く、影の薄い首相だった。1868年に退任し、ディズレーリが保守党党首・首相の地位を継承した。
1834年から1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用し、1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)を継承し、1851年にダービー伯爵位を継承した。
== 概要 ==
第13代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの長男。イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する。
大学在学中の1820年に庶民院議員に初当選した。はじめはホイッグ党系の独立議員だった。1827年にトーリー党自由主義派のジョージ・カニングの内閣に陸軍・植民地省次官として参加した。1830年のグレイ伯爵のホイッグ党政権にも、のち陸軍・植民地大臣として入閣したが、1834年にはグレイ伯爵のアイルランド国教会の歳入を社会保障に回す政策に反発して辞職した。
以降ホイッグ党を離れて保守党(旧トーリー党)へ接近し、1837年に同党に入党した。1841年の保守党政権ロバート・ピール内閣で陸軍・植民地大臣として入閣。1844年にビッカースタッフのスタンリー男爵に叙されて貴族院へ移籍した。
1845年にピール首相が穀物法を廃止して穀物の自由貿易を行おうとしたことに反対した。最終的に穀物法は廃止されるも、ピールらがピール派を立ち上げて保守党を去ったため、その後を受けて保守党党首に就任した。
1851年に父の死でダービー伯爵位を世襲する。
ベンジャミン・ディズレーリを保守党庶民院院内総務に任じて、庶民院対策を一任し、1852年にジョン・ラッセル卿のホイッグ党政権を倒して第1次内閣を組閣した。しかし少数与党政権だったので、大蔵大臣として入閣したディズレーリの予算案に否決されたことで、同年のうちに総辞職することとなった。
1858年にホイッグ党政権パーマストン子爵内閣が議会で敗れたため、第2次内閣を組閣したが、やはり少数与党政権なので1859年には議会で敗北して総辞職に追い込まれた。
1865年にラッセル伯爵内閣が選挙法改正法案をめぐって議会で敗北したことで、第3次内閣を組閣した。第1次、第2次同様に少数与党政権であったが、ディズレーリの主導により第2次選挙法改正を達成した。ダービー伯爵はこの法案の貴族院の通過にとりわけ大きな貢献をした。
1868年に病気のため、ディズレーリに首相職を譲って退任、その翌年に死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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